こつん。
————こつん。
————こつん。
真夜中に小さく響くその音はいつもの合図で、無明はぱちっと仮面の奥の瞼を開くと、身体を起こし、近くにあった衣を纏い、寝床を後にする。
こそこそと庭に出て、不規則に騒がしく鳴いている蛙の声を聴きながら池の前を通り過ぎると、低い塀の天辺から顔を覗かせた顔馴染みを発見し、大きく手を振った。
月明かりが暗い夜の闇を照らす中、しーっと人差し指を立てて慌てるその少年は、同い年だが生まれた月がふた月だけ早い三番目の公子、竜虎である。
見るからに几帳面そうな彼は、無明とは対照的で、頭の上できっちりと髪をまとめ、銀色の飾りで解けないようにとめている。
長めの前髪は丁度真ん中で分けられており、形の良い額と、整った顔立ちがよりその秀麗さを際立たせていた。金虎の一族の特徴である紫苑色の眼は、切れ長で凛々しいが優しさも垣間見える。
低い塀をひょいと片手を付いて乗り越え、地面に着地した無明は、あれ? と首を傾げて珍しいものでも見るように腰を屈めた。
「璃琳お嬢様、こんな夜更けにお散歩ですか?」
竜虎とよく似た、けれどもそれよりも大きな瞳の少女に対し、わざとらしく敬語を使い、丁寧にお辞儀をして様子を窺う。
綺麗に整えられた黒髪は肩の辺りまであり、そのひと房を括って飾られた、薄紫の花が付いた髪飾りがとても良く似合っている。
少女は右手に灯を、左手は兄である竜虎の衣の袖を遠慮なく強く掴み、きっと睨むように無明を見上げた。彼女はふたりの三つ年下の十二歳。竜虎と同じ母、つまり姜燈夫人の子で、無明の義妹でもある。
「なにがお散歩ですか? よっ! そんなの見ればわかるでっ······もぐっ」
「璃琳、声が大きいっ」
「ふたりとも大きいよ~あはは」
けらけらと笑って無明はふたりに教えてやるが、ふたりは同時にこちらを睨んで牽制してくる。金虎の一族が纏う、袖と裾に朱と金の糸で複雑な紋様が描かれた白い衣を羽織っている竜虎と、薄桃色の外出用の動きやすい上衣下裳を纏った璃琳。
無明はといえば、袖や裾の紋様は竜虎のそれと同じだが、黒い衣を纏っている。一族の直系や親族が纏う白に対して、黒の衣は従者の纏う色だった。
「私はふたりの監視役よ。明日は奉納祭だし、なにかあったら大変でしょ?」
今度は声を潜めて得意げに見上げてくる。それはこっちの台詞だ、と竜虎は肩を竦めた。
いつものように外にこっそり出ようとした所を、運悪く見つかってしまったのだ。璃琳は兄たちがやっていることを知っており、時折気分次第でついてくることがあった。
兄が怪我でもしたらとか、痴れ者と一緒で心配だから、というのが本音だが、本人たちの前では絶対言わないと決めている。
「で? 今夜はどうする? 北東の外れに現れる徘徊する殭屍? 渓谷の吊り橋を通せんぼする亡霊?」
竜虎は無明の肩に手を置いて、もう片方の手で懐から二つの文を取り出す。璃琳が持つ灯に照らされ、三人の顔は仄かに橙色に染まった。
姜燈夫人がこの光景を見たら、悲鳴を上げて気絶するか、無明の足を切り落とそうとするだろう。夫人の所業はふたりとも知っているが、無明がこういう性格なので、考えても無駄という結論である。
ただ、無明がいなければ、真夜中の妖者退治を考えることもなかったというのは事実。
三人には兄があとふたりいる。ひとりは母違いの一番上の兄である虎珀。もうひとりは、姜燈夫人の最初の息子である虎宇であるが、竜虎と璃琳はこの虎宇が死ぬほど嫌いであった。
すぐに怒り手を上げるし、自分より下の者に対しての態度が最悪だ。それを黙認するどころか、当たり前であるかのように肯定する母にも、その時ばかりは腹が立った。
虎宇の性格とは真逆の虎珀のことは好きで、実の兄よりも慕っており、彼の住む邸に入り浸ることもあった。
無明に対しては、幼い頃は母に言われるまま、酷い扱いをするのが当然だと思っていたが、ある日それは間違いだと気付いた。
なぜならこの痴れ者と呼ばれ続けている無明は、皆が口々に言うような痴れ者ではなかったからだ。
五年前。北の森で迷子になり、そのまま陽が沈み辺りが暗闇に包まれる中、大きな木の下でふたりでぴったりくっつきながら、助けを待っていた。 ざわざわと木々がざわめく音さえ恐ろしく、仄かに空を照らしていた月明かりも、遂に暗い雲に隠れてしまう。 すぐ目の前をよろよろと彷徨い歩く、陰の気を浴びて本能のままに動く死体である殭屍に、思わず声を上げそうになった。 ふたりはお互いの口を交互にしっかり押さえて、青ざめる。 その時だった。背にしていた木の上から、ふたりと殭屍の丁度真ん中に降り立った影が、符を数枚投げ、印を結んで緑色の炎で闇夜を照らしたのだ。 殭屍は、人のそれと違う、獣に似た大きな悲鳴を上げてもがいた後、見たこともないその緑の炎に焼き尽くされ、跡形もなく灰へと化し風で散った。(父上? ······ん? 虎珀兄上? ········誰?) 自分も子供だが、確かに同じくらいか少し背の低い子供が、人を喰う凶暴な殭屍をいとも簡単に倒したのだった。 頭の後ろで手を組んで、くるりと振り向いた子供は、従者が纏う黒い衣を纏い、白い仮面を付けていた。ゆっくりと雲が晴れ、闇夜がうっすらと明るさを取り戻す。 へへ〜と笑ったその子供は、おまたせ~と楽しそうに笑うと、組んでいた手を闇夜に掲げて万歳をしてみせた。 普段だったら「誰がお前なんか待つかっ!」と突っ込んでいただろうが、竜虎はその時ばかりは大泣きした。つられて璃琳もわんわん泣き出す。「ふたりとも、無事か!?」 ざっざっざっと大勢の足音が駆け寄ってきて、宗主である父が先頭をきって姿を現した。 その後ろからふたりの姿を見つけた夫人が、宗主を追い抜いて恐ろしい形相で駆け寄ってきて、有無を言わさずに無明の頬を思い切りぶった。「なんてことっ! あなた、私の大事な子どもたちになにをしたのっ」「やめなさい!」「なぜ止めるの!? あなたは自分の子どもたちが心配じゃないのっ」「無明も私の子だ。君はそこのふたりだけが私の子で、無明は他人か従者だとでも言いたいのかい?」 もう一度手を振りかざした夫人の手首を、思わず宗主が掴んで止める。姜燈夫人のその言い方に、さすがに宗主も呆れた。夫人が無明に従者の衣を着せた時から薄々感じていたが、そこまでだとは思っていなかった。 無明本人はまったく気にしていなかったが。「どうせこの子が、ふ
「虎珀、あなたは余計なことをしないでっ」「夫人、相手はまだ幼い子どもです。手をあげるのは感心しません」 虎珀は義弟たちの間に立ち、夫人を諭そうとするが、十五歳の少年に言われたことで、ますます姜燈夫人の顔が苛立ちを顕にする。 いつまでも収集がつかない現状に宗主は、仕方なくこほんとひとつ大きな咳をした。このままではここに集まっている従者や他の術士たちに、恥を晒すだけだ。「とにかく、無事だったのだから良いだろう。落ち着いてからふたりに事情を聞けば、なぜこのようなことになったか解る。決めつけるのはよくない」「なんですって!?」「虎珀、三人を邸まで頼む」 宗主は有無を言わさず、夫人の肩を抱いて先に去って行った。続いて他の術士、従者たちがやれやれという顔で去って行く。 残された四人もその後をついて行く。前を歩く虎珀の後ろで、三人は大人しく綺麗に縦一列になって歩いていた。 弾むような足取りで、一番後ろを歩いている無明を、こっそりとふたりは振り向きながら歩く。「なあ······本当にだいじょうぶか? 母上の平手打ちは最強に痛いんだ。俺も一回されたことがあるからわかるよ、」 大切にしていた花瓶を割ってしまった時、竜虎はそれをくらっていた。頬ではなくその時は手の甲だったが。 璃琳はおずおずと竜虎の袖を掴み、俯いているようだ。そもそもこうなったのは、璃琳が森に行ってみたいという駄々を、竜虎が同じく興味本位で叶えてしまったせいだった。 森は危ないというのは知っていた。しかし昼間なら妖者もいないので、問題ないと思ったのだ。 その結果道に迷い、宛もなく彷徨ってしまったせいで、このような事態になってしまった。「こんなの、全然へーきだよっ」 いつもなら自分たちをいらっとさせるへらへらした笑い方が、今はなぜかふたりを安心させる。「でも、俺が術を使ったのは内緒にしてね?」 人差し指を立て自分の唇にあてると、ふたりだけに聞こえるように耳打ちする。理由は聞かず、こくりとふたりはただ大きく頷いた。 この瞬間、この夜のことは、三人だけの秘密となったのだ。思えばこの時から、無明の才能は開花していたのだ。たった十歳で、しかも符だけで、あの凶暴な妖者を倒したのだから。 竜虎はこの日を境に、自分からすすんで厳しい修練に励むようになるのだった。
ふと、あの日の出来事を思い出していた竜虎は、無明の返事を待つ。 あれから五年経ち、十五歳になった。もう自分は大人だと自負している。妖者退治に関しては無明の方が勝っているが、背丈と同じように追い抜いてやる予定だ。「明日は早いから、近場のこっちかなっ」「よし、決まりだな」 仲の良いふたりの横で、むうっと璃琳は頬を膨らませる。「ちゃんと私を守ってよねっ!」「そんなこと言うくらいなら、ついてくるなよ」「誰かを守りながら退治しなきゃならない状況だってあるでしょっ!」 はいはい、と竜虎は自分の肩の高さ辺りにある璃琳の頭をぽんぽんと叩く。 単に一緒にいたいだけのくせに、と素直じゃない妹の性格に同情する。兄としては応援してやりたいところだが、この恋は成就しないだろう。 なんせ義兄だから。「大丈夫。璃琳も竜虎も俺が守るよ、」 ふたりの会話を聞いていた無明が、璃琳の前にいつの間にかさっと立ち、見返りも悪気もなく、いつものように笑った。 仮面の奥の瞳は相変わらずよく見えず、璃琳は馬鹿っ! 痴れ者! と竜虎を盾にして怒鳴りだす。しかし当の本人は怒られている理由がわからないため首を傾げた後、早くも興味をなくしたのかくるりと背を向けて歩き出した。(なんなのよー! もうっ!! ばかっ) 暗闇のおかげで、耳まで真っ赤になった顔を晒さないで済んだのが、せめてもの救いだ。 夜に相応しくない賑やかしい一行が向かうのは、紅鏡の北東の外れ。遠くに見える北の森の奥で、他の術士たちが今夜も妖者退治を行っている中、三人は北東の方へと歩を進める。 月明かりと、仄かな灯。 澄んでいるはずの夜空にあるものがないことを、三人は気付いていなかった。 それが、この先に待つモノの不吉さを物語っていたことを知るのは、もう少し後のことである。
夜が更けても灯りの絶えない、様々な屋台や店が立ち並ぶ、賑やかな紅鏡の中心地は平地で、その全体を見下ろせる丘側に、金虎の一族やその親族、従者の住まういくつかの邸がある。 門下生や術士たちは、平地に用意された邸に数人ずつ均等に配属されていて、怪異を鎮めるのが日々の務めとされている。 民に依頼されて成功報酬を貰うか、宗主から直々の命令を受けるか、もしくは無償で修練の一環として退治するかである。 北側は夜になれば妖者が徘徊する、暗く深い森が広がっており、森を抜けるとふたつの渓谷がある。 手前には、ただ深く底の見えない不気味な渓谷があり、吊り橋を越えた先に、大きな滝の流れる渓谷が現れる。 この渓谷の長い吊り橋を越えると、湖水の都、碧水である。 紅鏡から西側に進み、広い山間地帯に入ると、竹林に囲まれた古都、玉兎が見えてくる。 東側は整えられた道が続いていて、しばらく歩くと草原へと出る。そこから山を越え五日ほどで、豪華な楼閣が立ち並ぶ都、金華に辿り着く。 南下し数日険しい道を歩けば、高い岩壁に囲まれた要塞、光焔がある。 東西南北に位置する四つの土地にそれぞれの一族が治める都があり、この紅鏡はちょうどその真ん中に位置しているのが解る。 そして、北東側は大小様々な岩場に囲まれた広大な土地で、数百年前の大きな争いの爪痕が今もなお残っており、その一帯だけは常に薄暗く、淀んだ空と草の一本も育たない穢れた地が広がっている。「晦冥と紅鏡の境目のこの辺りに出没するらしいが、やけに静かだな?」 文には三、四体ほどの殭屍が彷徨っていて、紅鏡側に結界を越えて入ってきたのだという。 殭屍は陽の出ている間はのろのろと大人しく、同じ場所を動き回っているだけだが、夜になれば活動的になり、昼のそれとは比べ物にならないほど凶暴化し、人を喰らう危険な奴らである。 特にこの場所は、かつて数千人の術士が無惨に命を落とした地であり、この土の下にはその亡骸が今も眠っているという。 それが時を経て負の養分を吸い取り、殭屍となり彷徨っているのだから報われない話だ。 広い範囲で境界に巡らされた結界は、こちら側に入って来れないように張られていたが、殭屍はただ喰らいたいという本能のまま歩き回り、身体がぼろぼろになってもなにも感じないため、結界に何度も体当たりをする。 塵も積もれば綻びも生まれてし
「これはものすごくよくないかも」「この状況、どう見てもよくないだろっ!」 いつもの賑やかしさもなく、珍しくここまで無言だった無明が、初めて口を開いた。なにかを察したように、真面目な顔で見つめてくる。「璃琳はここから離れた方がいい。これを、」 袖から符を取り出し、ふぅと無明は息を吹きかける。すると黄色い符が緑色の仄かな光を帯び、璃琳の胸にすっと貼りついた。「絶対に、剝がしちゃだめだよ?」「だ、大丈夫なの? あんな数、ふたりだけでなんとかなる数じゃないわっ」 震えた声で璃琳は小声で叫ぶ。「幸い、明日の奉納祭のために各一族の公子たちや宗主が、紅鏡に集まってる。お節介な誰かが、騒ぎに気付いて来てくれるのを願うしかない。それまでなんとか持ち堪えてみせるさ」 落ち着かせるように璃琳の肩をそっと抱いて、竜虎は頷く。「お前は無明の言う通りここから離れろ。ゆっくり、急いで、だ」「大丈夫。竜虎は俺が守るし、璃琳も俺の符が守るから」「や、約束よ! 絶対、ね」 ふたりが頷くのを確認してから、決心したように璃琳は背を向け、灯を消して速足で駆けて行く。 それを背にしたまま見送り、竜虎は左手をぐっと目の前で握る。右手の中指と人差し指を立て、まるで見えない剣の刃を這わせるように横に、すっと素早く払った。 すると、なにもなかった空間から白銀の刃と柄が現れ、手の中にしっかりと収まった。霊気の宿ったその剣は、霊剣と呼ばれるもので、人によって全く異なった姿形を取るという。 竜虎のそれは細身の霊剣で、王華と名付けられていた。「璃琳にはとりあえずああ言ったが、勝算はあるんだろうな?」 霊剣を構え、今にも飛び掛かってきそうな殭屍の群れを前に、視線を向けずに無明に問いかける。「考えるより動け、だよ!」 その言葉がまるで合図だったかのように、殭屍たちが一斉にこちらを向き、瞬く間に距離を詰めて飛び掛かってきたのだ。 無明は腰に差していた横笛を、指を使って器用にくるりと回転させて口元に運ぶと、仮面の奥で眼を閉じ、ふっと笑みを浮かべた。 途端に、甲高い音色が鳴り響き、殭屍たちの足元が大きな音を立てて陥没した。 突然上から大きな力で圧し潰されているかのように、身動きが取れなくなったその十数体のすべての殭屍が、重力に抵抗するように、皆揃って曲がった身体をぐぐっと起こそうとしてい
暉の国。 夜になると妖者と呼ばれる魑魅魍魎が跋扈する地。かつて国を脅かしていた、邪悪な鬼術を操る一族が、伏魔殿に封じられ数百年が経った今も、その影響は完全に止むことはなく。国の各地方を守護する五つの一族は、妖者によって日々絶え間なく起こされる災厄に、手を焼いていた。 紅鏡、碧水、光焔、金華、玉兎。 国は五つに大きく分かれており、それぞれ金虎、白群、緋、雷火、姮娥という一族が治めている。 一族の長は宗主と呼ばれ、その嫡子を公子と呼ぶ。一族に仕える者を従者、また一族の門下に入り術を修めた者を、総じて術士と呼んだ。**** 紅鏡。金虎の邸。同じ敷地の中にいくつかの大小様々な邸が存在した。 その中でも一番小さく質素な造りで、中心に存在する宗主の邸から一番離れた場所に在るのが、第四公子とその母が住まう邸である。 小さいが手入れの行き届いた庭には、年季の入った桜の木が一本と、赤と白の模様の鯉が二匹泳ぐ小さな池があり、その周りには季節ごとに色とりどりの花が咲き乱れ、そこに住む者の穏やかさを感じさせた。 邸からはいつものように奇妙な笛の音と、繊細な琴の音が奏でられている。 春。疎らな薄紅の花衣をつけた桜の木の下で、目を閉じ、適当な音程で気のままに横笛を吹いているのは、額から鼻の先を覆う白い仮面を付けている少年だった。 少年は十代半ばくらいの見た目で、上下黒い衣を纏っている。長い黒髪は赤い髪紐で結んでおり、細身で小柄な印象があった。 そこからさほど離れていない向かい側の邸の縁側で、そのでたらめな音程に合わせて琴を奏でているのは、少年の母である。 大きな翡翠の瞳が特徴的な、美しい容貌の穏やかな女性だが、少女のようなあどけなさも垣間みえる、不思議な魅力があった。 ふいに琴の音が止まり、少年の笛の音も遅れて止まる。見れば母が立ち上がり両手を胸の前で組み、丁寧に頭を下げる仕草をしていた。(珍しいな。父上がこんな時間にここに来るなんて。奉納祭の打ち合わせとか? にしては、なんだか難しそうな顔をしてるみたい······) 母の視線の先に現れた人物に、少年も慌てて同じように立ち上がり、やや雑だが胸の前で腕を上げて囲いを作り、頭を下げてお辞儀をする。 まだ朝から昼の間くらいの刻であった。事前の連絡もなく突然訪問してきた宗主を、母が縁側から降りて自ら歩み寄り、
「ここにきて、姜燈が今回の奉納祭も自分が仕切ると言い出して、虎珀もそれを了承してしまったものだから、色々と頭が痛くてね」 姜燈は宗主である飛虎の第一夫人で、虎珀は亡くなった前夫人蘇陽の子。四人いる公子のひとりで、無明から見ると母違いの一番上の兄である。 まだ若く二十歳で、生まれつき病弱で術士としては存在感が薄いが、その博識さと寛容な性格が気に入られ、宗主である父を側で支えている。 姜燈には二人の息子と一人の娘がおり、なにかと理由を付けては、長男に活躍させる場を設けさせていた。(虎珀兄上らしいと言えばそれまでだけど····) 寛容すぎるが故に、押しにも弱い。頭も良く行動力もあるが、なにより優しすぎるところがあった。どちらかと言えば、姜燈夫人の勢いに負けたという方が正しいのかもしれない。 「けど、毎回奉納祭は姜燈夫人が仕切っていたのに、今回に限ってなにか問題でも?」「奉納祭は毎年行われる国の行事というのは知っているわね? けれども百年に一度だけ、各地方各一族が祀っている四神の宝玉を持ち寄り、光架の民の末裔が四神奉納舞をすることで穢れを祓い、また百年土地を守るための清めを行うの」「その百年に一度が、今回の奉納祭ってこと?」 そうよ、と藍歌は小さく頷いた。光架の民とは、遥か昔、この地を拓いたという神子の血を引く一族で、今も少数だが存在する。 俗世から離れ、どこかの山の奥の奥に住み、誰もその場所を知らない。だが一年に一度行われる奉納祭の時にだけ山を下り、四神への奉納舞を舞い、役目を終えるとさっさと去っていく。 彼らは今もなお先人と変わらぬ高い霊力を持ち、孤高の存在と化しているため、他の一族からも一目置かれているのだ。 十六年前。当時十五になったばかりの藍歌は初めて紅鏡を訪れ、舞を舞った。それに一目惚れをした飛虎の熱心な求婚によって、藍歌は第三夫人となったのだ。 その一年後に無明は生まれ、現在に至る。 つまりは母は光架の民で、母の父は長。無明にとって祖父に当たるその人は、その婚姻を反対することもなく、簡単に承諾したらしい。「百年祭とも呼ばれている大切な行事のため、間違いのないように、事前に手順や準備を頼んでいた虎珀に取り仕切ってもらうはずだったが、」「でも、奉納祭って五日後じゃ····」 その言葉を受けて、魂が抜けたように宗主は肩を落とす。
宗主が去った後、先ほどまで穏やかに音を奏でていた縁側の琴をしまい、藍歌と無明は文机を挟んで向かい合うように座る。 無明の部屋はいつもの如く、書物や竹簡、書きかけの符や作りかけのガラクタが、狭い部屋いっぱいに散らかっていた。 二人の間の文机も山のように積み上げられた書物で埋もれており、かろうじてそれぞれの顔が見える状態だ。 艶やかな長い黒髪を飾る赤い花の髪飾りがとてもよく映え、薄化粧だが十分整った美しい容貌の藍歌の表情は、宗主の前で見せていた気丈さを失くし、どこか不安げだった。 一方、同じ黒髪だが少し先の方に癖のある髪を頭のてっぺんで無造作に括り、赤い紐で結っている無明の表情は、白い仮面に覆われていてさっぱり解らない。 藍歌によく似た薄赤色の綺麗な口元は、いつもの如くへらへらと緩んでいて、不安など一切感じさせないのだ。「母上、姜燈夫人はなにを仕掛けてくると思う?」 手を頭の後ろで組み、足を崩して無明は楽しそうに言う。他の公子たちとは違い、武術の修錬などしたことがないので腕も細く、肌も生白い。声音は女にしては低く、男にしては少し高いため、中性的な印象を受ける。 上背も藍歌とほとんど変わらないため、同じ年頃の子と比べれば低い方だろう。話し方や仕草からは天真爛漫さが溢れ、今も楽しくてたまらないという感情が汲み取れた。「あなたに金虎の一族の直系が授かる力が無く、将来宗主になどなる資格もないと解っているのに、どうして夫人が敵意を向けてくるのかわかる?」 そもそも自分たちはそういうものに興味がなく、ただ平穏無事に日々を過ごせれば、他にはなにも要らないと思っている。それを宗主も解っているので、生まれてすぐに無明に仮面を付けさせ、この離れに住まわせているのだ。 邸に住む他の公子、親戚、従者や術士、門下生に至るまで、無明のことをなんと呼んでいるか。 痴れ者。つまり、愚か者の公子。従者や一部の民、他の一族の者たちの間では、ちょっと頭が"あれ"な公子といえば、紅鏡の第四公子、と皆が口を揃えて答えることだろう。 無明は色々な意味で一族の誰よりも有名で、誰よりも不名誉な名の轟かせ方をしていた。「なんでだろう? 身に覚えがありすぎてわかんないや。へへ。俺、ちゃんと周知の痴れ者でしょ?」「その痴れ者と呼ばれてるあなたが、夜にこっそり邸を抜け出して、妖者退治をしてい
「これはものすごくよくないかも」「この状況、どう見てもよくないだろっ!」 いつもの賑やかしさもなく、珍しくここまで無言だった無明が、初めて口を開いた。なにかを察したように、真面目な顔で見つめてくる。「璃琳はここから離れた方がいい。これを、」 袖から符を取り出し、ふぅと無明は息を吹きかける。すると黄色い符が緑色の仄かな光を帯び、璃琳の胸にすっと貼りついた。「絶対に、剝がしちゃだめだよ?」「だ、大丈夫なの? あんな数、ふたりだけでなんとかなる数じゃないわっ」 震えた声で璃琳は小声で叫ぶ。「幸い、明日の奉納祭のために各一族の公子たちや宗主が、紅鏡に集まってる。お節介な誰かが、騒ぎに気付いて来てくれるのを願うしかない。それまでなんとか持ち堪えてみせるさ」 落ち着かせるように璃琳の肩をそっと抱いて、竜虎は頷く。「お前は無明の言う通りここから離れろ。ゆっくり、急いで、だ」「大丈夫。竜虎は俺が守るし、璃琳も俺の符が守るから」「や、約束よ! 絶対、ね」 ふたりが頷くのを確認してから、決心したように璃琳は背を向け、灯を消して速足で駆けて行く。 それを背にしたまま見送り、竜虎は左手をぐっと目の前で握る。右手の中指と人差し指を立て、まるで見えない剣の刃を這わせるように横に、すっと素早く払った。 すると、なにもなかった空間から白銀の刃と柄が現れ、手の中にしっかりと収まった。霊気の宿ったその剣は、霊剣と呼ばれるもので、人によって全く異なった姿形を取るという。 竜虎のそれは細身の霊剣で、王華と名付けられていた。「璃琳にはとりあえずああ言ったが、勝算はあるんだろうな?」 霊剣を構え、今にも飛び掛かってきそうな殭屍の群れを前に、視線を向けずに無明に問いかける。「考えるより動け、だよ!」 その言葉がまるで合図だったかのように、殭屍たちが一斉にこちらを向き、瞬く間に距離を詰めて飛び掛かってきたのだ。 無明は腰に差していた横笛を、指を使って器用にくるりと回転させて口元に運ぶと、仮面の奥で眼を閉じ、ふっと笑みを浮かべた。 途端に、甲高い音色が鳴り響き、殭屍たちの足元が大きな音を立てて陥没した。 突然上から大きな力で圧し潰されているかのように、身動きが取れなくなったその十数体のすべての殭屍が、重力に抵抗するように、皆揃って曲がった身体をぐぐっと起こそうとしてい
夜が更けても灯りの絶えない、様々な屋台や店が立ち並ぶ、賑やかな紅鏡の中心地は平地で、その全体を見下ろせる丘側に、金虎の一族やその親族、従者の住まういくつかの邸がある。 門下生や術士たちは、平地に用意された邸に数人ずつ均等に配属されていて、怪異を鎮めるのが日々の務めとされている。 民に依頼されて成功報酬を貰うか、宗主から直々の命令を受けるか、もしくは無償で修練の一環として退治するかである。 北側は夜になれば妖者が徘徊する、暗く深い森が広がっており、森を抜けるとふたつの渓谷がある。 手前には、ただ深く底の見えない不気味な渓谷があり、吊り橋を越えた先に、大きな滝の流れる渓谷が現れる。 この渓谷の長い吊り橋を越えると、湖水の都、碧水である。 紅鏡から西側に進み、広い山間地帯に入ると、竹林に囲まれた古都、玉兎が見えてくる。 東側は整えられた道が続いていて、しばらく歩くと草原へと出る。そこから山を越え五日ほどで、豪華な楼閣が立ち並ぶ都、金華に辿り着く。 南下し数日険しい道を歩けば、高い岩壁に囲まれた要塞、光焔がある。 東西南北に位置する四つの土地にそれぞれの一族が治める都があり、この紅鏡はちょうどその真ん中に位置しているのが解る。 そして、北東側は大小様々な岩場に囲まれた広大な土地で、数百年前の大きな争いの爪痕が今もなお残っており、その一帯だけは常に薄暗く、淀んだ空と草の一本も育たない穢れた地が広がっている。「晦冥と紅鏡の境目のこの辺りに出没するらしいが、やけに静かだな?」 文には三、四体ほどの殭屍が彷徨っていて、紅鏡側に結界を越えて入ってきたのだという。 殭屍は陽の出ている間はのろのろと大人しく、同じ場所を動き回っているだけだが、夜になれば活動的になり、昼のそれとは比べ物にならないほど凶暴化し、人を喰らう危険な奴らである。 特にこの場所は、かつて数千人の術士が無惨に命を落とした地であり、この土の下にはその亡骸が今も眠っているという。 それが時を経て負の養分を吸い取り、殭屍となり彷徨っているのだから報われない話だ。 広い範囲で境界に巡らされた結界は、こちら側に入って来れないように張られていたが、殭屍はただ喰らいたいという本能のまま歩き回り、身体がぼろぼろになってもなにも感じないため、結界に何度も体当たりをする。 塵も積もれば綻びも生まれてし
ふと、あの日の出来事を思い出していた竜虎は、無明の返事を待つ。 あれから五年経ち、十五歳になった。もう自分は大人だと自負している。妖者退治に関しては無明の方が勝っているが、背丈と同じように追い抜いてやる予定だ。「明日は早いから、近場のこっちかなっ」「よし、決まりだな」 仲の良いふたりの横で、むうっと璃琳は頬を膨らませる。「ちゃんと私を守ってよねっ!」「そんなこと言うくらいなら、ついてくるなよ」「誰かを守りながら退治しなきゃならない状況だってあるでしょっ!」 はいはい、と竜虎は自分の肩の高さ辺りにある璃琳の頭をぽんぽんと叩く。 単に一緒にいたいだけのくせに、と素直じゃない妹の性格に同情する。兄としては応援してやりたいところだが、この恋は成就しないだろう。 なんせ義兄だから。「大丈夫。璃琳も竜虎も俺が守るよ、」 ふたりの会話を聞いていた無明が、璃琳の前にいつの間にかさっと立ち、見返りも悪気もなく、いつものように笑った。 仮面の奥の瞳は相変わらずよく見えず、璃琳は馬鹿っ! 痴れ者! と竜虎を盾にして怒鳴りだす。しかし当の本人は怒られている理由がわからないため首を傾げた後、早くも興味をなくしたのかくるりと背を向けて歩き出した。(なんなのよー! もうっ!! ばかっ) 暗闇のおかげで、耳まで真っ赤になった顔を晒さないで済んだのが、せめてもの救いだ。 夜に相応しくない賑やかしい一行が向かうのは、紅鏡の北東の外れ。遠くに見える北の森の奥で、他の術士たちが今夜も妖者退治を行っている中、三人は北東の方へと歩を進める。 月明かりと、仄かな灯。 澄んでいるはずの夜空にあるものがないことを、三人は気付いていなかった。 それが、この先に待つモノの不吉さを物語っていたことを知るのは、もう少し後のことである。
「虎珀、あなたは余計なことをしないでっ」「夫人、相手はまだ幼い子どもです。手をあげるのは感心しません」 虎珀は義弟たちの間に立ち、夫人を諭そうとするが、十五歳の少年に言われたことで、ますます姜燈夫人の顔が苛立ちを顕にする。 いつまでも収集がつかない現状に宗主は、仕方なくこほんとひとつ大きな咳をした。このままではここに集まっている従者や他の術士たちに、恥を晒すだけだ。「とにかく、無事だったのだから良いだろう。落ち着いてからふたりに事情を聞けば、なぜこのようなことになったか解る。決めつけるのはよくない」「なんですって!?」「虎珀、三人を邸まで頼む」 宗主は有無を言わさず、夫人の肩を抱いて先に去って行った。続いて他の術士、従者たちがやれやれという顔で去って行く。 残された四人もその後をついて行く。前を歩く虎珀の後ろで、三人は大人しく綺麗に縦一列になって歩いていた。 弾むような足取りで、一番後ろを歩いている無明を、こっそりとふたりは振り向きながら歩く。「なあ······本当にだいじょうぶか? 母上の平手打ちは最強に痛いんだ。俺も一回されたことがあるからわかるよ、」 大切にしていた花瓶を割ってしまった時、竜虎はそれをくらっていた。頬ではなくその時は手の甲だったが。 璃琳はおずおずと竜虎の袖を掴み、俯いているようだ。そもそもこうなったのは、璃琳が森に行ってみたいという駄々を、竜虎が同じく興味本位で叶えてしまったせいだった。 森は危ないというのは知っていた。しかし昼間なら妖者もいないので、問題ないと思ったのだ。 その結果道に迷い、宛もなく彷徨ってしまったせいで、このような事態になってしまった。「こんなの、全然へーきだよっ」 いつもなら自分たちをいらっとさせるへらへらした笑い方が、今はなぜかふたりを安心させる。「でも、俺が術を使ったのは内緒にしてね?」 人差し指を立て自分の唇にあてると、ふたりだけに聞こえるように耳打ちする。理由は聞かず、こくりとふたりはただ大きく頷いた。 この瞬間、この夜のことは、三人だけの秘密となったのだ。思えばこの時から、無明の才能は開花していたのだ。たった十歳で、しかも符だけで、あの凶暴な妖者を倒したのだから。 竜虎はこの日を境に、自分からすすんで厳しい修練に励むようになるのだった。
五年前。北の森で迷子になり、そのまま陽が沈み辺りが暗闇に包まれる中、大きな木の下でふたりでぴったりくっつきながら、助けを待っていた。 ざわざわと木々がざわめく音さえ恐ろしく、仄かに空を照らしていた月明かりも、遂に暗い雲に隠れてしまう。 すぐ目の前をよろよろと彷徨い歩く、陰の気を浴びて本能のままに動く死体である殭屍に、思わず声を上げそうになった。 ふたりはお互いの口を交互にしっかり押さえて、青ざめる。 その時だった。背にしていた木の上から、ふたりと殭屍の丁度真ん中に降り立った影が、符を数枚投げ、印を結んで緑色の炎で闇夜を照らしたのだ。 殭屍は、人のそれと違う、獣に似た大きな悲鳴を上げてもがいた後、見たこともないその緑の炎に焼き尽くされ、跡形もなく灰へと化し風で散った。(父上? ······ん? 虎珀兄上? ········誰?) 自分も子供だが、確かに同じくらいか少し背の低い子供が、人を喰う凶暴な殭屍をいとも簡単に倒したのだった。 頭の後ろで手を組んで、くるりと振り向いた子供は、従者が纏う黒い衣を纏い、白い仮面を付けていた。ゆっくりと雲が晴れ、闇夜がうっすらと明るさを取り戻す。 へへ〜と笑ったその子供は、おまたせ~と楽しそうに笑うと、組んでいた手を闇夜に掲げて万歳をしてみせた。 普段だったら「誰がお前なんか待つかっ!」と突っ込んでいただろうが、竜虎はその時ばかりは大泣きした。つられて璃琳もわんわん泣き出す。「ふたりとも、無事か!?」 ざっざっざっと大勢の足音が駆け寄ってきて、宗主である父が先頭をきって姿を現した。 その後ろからふたりの姿を見つけた夫人が、宗主を追い抜いて恐ろしい形相で駆け寄ってきて、有無を言わさずに無明の頬を思い切りぶった。「なんてことっ! あなた、私の大事な子どもたちになにをしたのっ」「やめなさい!」「なぜ止めるの!? あなたは自分の子どもたちが心配じゃないのっ」「無明も私の子だ。君はそこのふたりだけが私の子で、無明は他人か従者だとでも言いたいのかい?」 もう一度手を振りかざした夫人の手首を、思わず宗主が掴んで止める。姜燈夫人のその言い方に、さすがに宗主も呆れた。夫人が無明に従者の衣を着せた時から薄々感じていたが、そこまでだとは思っていなかった。 無明本人はまったく気にしていなかったが。「どうせこの子が、ふ
こつん。 ————こつん。 ————こつん。 真夜中に小さく響くその音はいつもの合図で、無明はぱちっと仮面の奥の瞼を開くと、身体を起こし、近くにあった衣を纏い、寝床を後にする。 こそこそと庭に出て、不規則に騒がしく鳴いている蛙の声を聴きながら池の前を通り過ぎると、低い塀の天辺から顔を覗かせた顔馴染みを発見し、大きく手を振った。 月明かりが暗い夜の闇を照らす中、しーっと人差し指を立てて慌てるその少年は、同い年だが生まれた月がふた月だけ早い三番目の公子、竜虎である。 見るからに几帳面そうな彼は、無明とは対照的で、頭の上できっちりと髪をまとめ、銀色の飾りで解けないようにとめている。 長めの前髪は丁度真ん中で分けられており、形の良い額と、整った顔立ちがよりその秀麗さを際立たせていた。金虎の一族の特徴である紫苑色の眼は、切れ長で凛々しいが優しさも垣間見える。 低い塀をひょいと片手を付いて乗り越え、地面に着地した無明は、あれ? と首を傾げて珍しいものでも見るように腰を屈めた。「璃琳お嬢様、こんな夜更けにお散歩ですか?」 竜虎とよく似た、けれどもそれよりも大きな瞳の少女に対し、わざとらしく敬語を使い、丁寧にお辞儀をして様子を窺う。 綺麗に整えられた黒髪は肩の辺りまであり、そのひと房を括って飾られた、薄紫の花が付いた髪飾りがとても良く似合っている。 少女は右手に灯を、左手は兄である竜虎の衣の袖を遠慮なく強く掴み、きっと睨むように無明を見上げた。彼女はふたりの三つ年下の十二歳。竜虎と同じ母、つまり姜燈夫人の子で、無明の義妹でもある。「なにがお散歩ですか? よっ! そんなの見ればわかるでっ······もぐっ」「璃琳、声が大きいっ」「ふたりとも大きいよ~あはは」 けらけらと笑って無明はふたりに教えてやるが、ふたりは同時にこちらを睨んで牽制してくる。金虎の一族が纏う、袖と裾に朱と金の糸で複雑な紋様が描かれた白い衣を羽織っている竜虎と、薄桃色の外出用の動きやすい上衣下裳を纏った璃琳。 無明はといえば、袖や裾の紋様は竜虎のそれと同じだが、黒い衣を纏っている。一族の直系や親族が纏う白に対して、黒の衣は従者の纏う色だった。「私はふたりの監視役よ。明日は奉納祭だし、なにかあったら大変でしょ?」 今度は声を潜めて得意げに見上げてくる。それはこっちの台詞だ、と竜
(内緒だよ、って言ったんだけどなぁ) はは、と肩を竦めて無明は苦笑する。白い仮面、笛、奇怪な術符、特徴がありすぎて噂はどんどん広まってしまったらしい。 仮面は宗主にしか外せないため、素顔はもちろん知られることはないが、噂の種には十分だった。「仮面を付けていたからと言って、あなただとは断定していないとしても、もしかしたら、と疑念を抱かせてしまうわ。たとえみんなの前ではなんの力もないと見せていても、ちょっとした綻びで偽りが暴かれてしまうこともある」「わかってる。俺も今の不変で平穏な生活が好きだし、壊したくもない。でも、探究心は抑えられないし、ここにあるたくさんの符や術譜を試したくてしょうがないんだ」 好奇心や探究心は、邸に閉じこもってばかりの無明にとって、なによりも一番大事な事だった。「それに困ってる人を助けるのは悪いこと? 力があるなら使わないと。都の術士たちは上物の妖者をすすんで退治したがるけど、誠実な気持ちでやっているのはほんのひと握り。本当に厄介な怪異や妖者には目を背ける者が多い。そんなの、俺は、」 途中まで流暢に話していた無明の声が止まる。 夢中で話していたその視線の先にいる藍歌が、静かに頷いたからだ。その実情は宗主も知っている。だが時に命を落としかねない事態もあるからこそ、見極めも必要と結論付けている。 それはどこの一族も同じで、違うとするなら碧水の白群の一族くらいだろうと皆が言うだろう。「あなたのやっていることを止めるつもりはないわ。あなたは賢いから、言わなくてもわかっているでしょう? 今以上に上手くやりなさいということ」 しばし瞬きをして、呆気にとられていたが、にっと笑って無明は文机に頬杖を付いた。「母上、これ、まだ試験段階なんだけど、面白い符を作ったんだっ」「ふふ、どんな効果があるの?」 子供のように楽しそうに笑って、無明は得意げに続ける。それを飽きることなく聞きながら、藍歌はうんうんと頷く。 新しい玩具を手にした小さな子供のようにはしゃぐ無明を眺めていると、胸の奥に渦巻いていた不安がすうっと消えていく気がした。 昼を知らせる鐘の音が響くと、邸の従者が昼食を運んで来るので、話はそこで終了した。 従者が来る気配がした途端、無明はばっと勢いよく立ち上がり、くるくると回りながらデタラメな歌を大声で歌う。 その変わり身の早
宗主が去った後、先ほどまで穏やかに音を奏でていた縁側の琴をしまい、藍歌と無明は文机を挟んで向かい合うように座る。 無明の部屋はいつもの如く、書物や竹簡、書きかけの符や作りかけのガラクタが、狭い部屋いっぱいに散らかっていた。 二人の間の文机も山のように積み上げられた書物で埋もれており、かろうじてそれぞれの顔が見える状態だ。 艶やかな長い黒髪を飾る赤い花の髪飾りがとてもよく映え、薄化粧だが十分整った美しい容貌の藍歌の表情は、宗主の前で見せていた気丈さを失くし、どこか不安げだった。 一方、同じ黒髪だが少し先の方に癖のある髪を頭のてっぺんで無造作に括り、赤い紐で結っている無明の表情は、白い仮面に覆われていてさっぱり解らない。 藍歌によく似た薄赤色の綺麗な口元は、いつもの如くへらへらと緩んでいて、不安など一切感じさせないのだ。「母上、姜燈夫人はなにを仕掛けてくると思う?」 手を頭の後ろで組み、足を崩して無明は楽しそうに言う。他の公子たちとは違い、武術の修錬などしたことがないので腕も細く、肌も生白い。声音は女にしては低く、男にしては少し高いため、中性的な印象を受ける。 上背も藍歌とほとんど変わらないため、同じ年頃の子と比べれば低い方だろう。話し方や仕草からは天真爛漫さが溢れ、今も楽しくてたまらないという感情が汲み取れた。「あなたに金虎の一族の直系が授かる力が無く、将来宗主になどなる資格もないと解っているのに、どうして夫人が敵意を向けてくるのかわかる?」 そもそも自分たちはそういうものに興味がなく、ただ平穏無事に日々を過ごせれば、他にはなにも要らないと思っている。それを宗主も解っているので、生まれてすぐに無明に仮面を付けさせ、この離れに住まわせているのだ。 邸に住む他の公子、親戚、従者や術士、門下生に至るまで、無明のことをなんと呼んでいるか。 痴れ者。つまり、愚か者の公子。従者や一部の民、他の一族の者たちの間では、ちょっと頭が"あれ"な公子といえば、紅鏡の第四公子、と皆が口を揃えて答えることだろう。 無明は色々な意味で一族の誰よりも有名で、誰よりも不名誉な名の轟かせ方をしていた。「なんでだろう? 身に覚えがありすぎてわかんないや。へへ。俺、ちゃんと周知の痴れ者でしょ?」「その痴れ者と呼ばれてるあなたが、夜にこっそり邸を抜け出して、妖者退治をしてい
「ここにきて、姜燈が今回の奉納祭も自分が仕切ると言い出して、虎珀もそれを了承してしまったものだから、色々と頭が痛くてね」 姜燈は宗主である飛虎の第一夫人で、虎珀は亡くなった前夫人蘇陽の子。四人いる公子のひとりで、無明から見ると母違いの一番上の兄である。 まだ若く二十歳で、生まれつき病弱で術士としては存在感が薄いが、その博識さと寛容な性格が気に入られ、宗主である父を側で支えている。 姜燈には二人の息子と一人の娘がおり、なにかと理由を付けては、長男に活躍させる場を設けさせていた。(虎珀兄上らしいと言えばそれまでだけど····) 寛容すぎるが故に、押しにも弱い。頭も良く行動力もあるが、なにより優しすぎるところがあった。どちらかと言えば、姜燈夫人の勢いに負けたという方が正しいのかもしれない。 「けど、毎回奉納祭は姜燈夫人が仕切っていたのに、今回に限ってなにか問題でも?」「奉納祭は毎年行われる国の行事というのは知っているわね? けれども百年に一度だけ、各地方各一族が祀っている四神の宝玉を持ち寄り、光架の民の末裔が四神奉納舞をすることで穢れを祓い、また百年土地を守るための清めを行うの」「その百年に一度が、今回の奉納祭ってこと?」 そうよ、と藍歌は小さく頷いた。光架の民とは、遥か昔、この地を拓いたという神子の血を引く一族で、今も少数だが存在する。 俗世から離れ、どこかの山の奥の奥に住み、誰もその場所を知らない。だが一年に一度行われる奉納祭の時にだけ山を下り、四神への奉納舞を舞い、役目を終えるとさっさと去っていく。 彼らは今もなお先人と変わらぬ高い霊力を持ち、孤高の存在と化しているため、他の一族からも一目置かれているのだ。 十六年前。当時十五になったばかりの藍歌は初めて紅鏡を訪れ、舞を舞った。それに一目惚れをした飛虎の熱心な求婚によって、藍歌は第三夫人となったのだ。 その一年後に無明は生まれ、現在に至る。 つまりは母は光架の民で、母の父は長。無明にとって祖父に当たるその人は、その婚姻を反対することもなく、簡単に承諾したらしい。「百年祭とも呼ばれている大切な行事のため、間違いのないように、事前に手順や準備を頼んでいた虎珀に取り仕切ってもらうはずだったが、」「でも、奉納祭って五日後じゃ····」 その言葉を受けて、魂が抜けたように宗主は肩を落とす。